臼井霊気療法

2024年6月26日水曜日

靈氣療法

t f B! P L


 靈氣療法の始まり

臼井霊気療法の歴史、臼井先生については諸説あるので功徳之碑に刻まれた内容を掲載します。

霊法肇祖臼井先生功徳之碑

修養練磨ノ実ヲ積ミテ中ニ得ル所アルヲ之ヲ徳ト謂ヒ開導拯済ノ道ヲ弘メテ外ニ施ス所アルヲ之ヲ功ト謂フ功高ク徳大ニシテ始メテ一大宗師タルコトヲ得ヘシ古来ノ賢哲俊偉ノ士カ学統ヲ垂レ宗旨ヲ創メシ者ハ皆然ラサルナシ臼井先生ノ如キモ亦其ノ人ナルカ先生新ニ宇宙ノ霊氣ニ本ツキテ心身ヲ善クスル法ヲ肇ム四方伝ヘ聞キ教ヲ乞ヒ療ヲ願フ者翕然トシテ之ニ帰ス嗚呼亦盛ンナルカナ先生通称甕男号ハ暁帆岐阜県山県郡谷合村ノ人其ノ先ハ千葉常胤ニ出ツ父諱ハ胤氏通称宇左衛門母ハ河合氏先生慶応元年八月十五日ヲ以テ生ル幼ヨリ苦学力行儕輩ニ超ユ長スルニ及ヒ欧米ニ航シ支那ニ游フ既ニシテ世ニ立ツ事志ト違ヒ轗軻不遇屡窮約ニ処リシモ毫モ屈撓セス鍛練益至レリ一日鞍馬山ニ登リ食ヲ断チテ苦修辛練スルコト二十有一日倏チ一大霊氣ノ頭上ニ感シ豁然トシテ霊氣療法ヲ得タリ是ヨリ之ヲ身ニ試ミ家人ニ験スルニ功効立チトコロニ見ハル先生以為ヘラク独リ其ノ家人ヲ善クスルヨリハ広ク世人ニ授ケテ共ニ其ノ慶ニ頼ルニ若カスト大正十一年四月居ヲ東京青山原宿ニ定メ学会ヲ設ケ霊氣ノ療法ヲ授ケ治療ヲ行フ遠近来リ乞フ者履戸外ニ満ツ十二年九月大震火災起リ創傷病苦到ル処ニ呻吟ス先生深ク之ヲ痛ミ日ニ出テテ市ヲ巡リ救療スルコト幾何ナルヲ知ルヘカラス其ノ急ニ赴キ患ヲ済フコト大率此ノ如シ後道場ノ狭隘ナリシヲ以テ十四年二月市外中野ニ卜築ス声誉彌著ハレ地方ヨリ招聘スル者少カラス先生其ノ需ニ応シ呉ニ之キ広島ニ向ヒ佐賀ニ入リ尋テ福山ニ抵ル偶疾作リ遂ニ客舎ニ歿ス時ニ大正十五年三月九日ナリ享年六十二配鈴木氏名ハ貞子一男二女ヲ生ム男ヲ不二ト曰ヒ家ヲ嗣ク先生人ト為リ温厚恭謙ニシテ辺幅ヲ飾ラス躯幹豊偉常ニ莞爾トシテ笑ヲ含ム其ノ事ニ当ルヤ剛毅ニシテ善ク忍ヒ用意尤モ深シ素トヨリ才芸多ク読書ヲ好ミ史伝ニ渉リ医書及ヒ仏耶ノ経典ニ出入シ心理ノ学神仙ノ方禁呪占筮相人ノ術ニ至ルマテ通セサルナシ蓋シ先生ノ学芸経歴ハ修養練磨ノ資料トナリ修養練磨ハ霊法開創ノ管鍵トナリシコトハ彰彰乎トシテ昭ラカナリ顧フニ霊法ノ主トスル所ハ独リ疾病ヲ療スルニ止マラス要ハ天賦ノ霊能ニ因リテ心ヲ正シクシ身ヲ健ニシテ人生ノ福祉ヲ享ケシムルニ在リ故ニ其ノ人ヲ教フルヤ先ツ明治天皇ノ遺訓ヲ奉体シ朝夕五戒ヲ唱ヘテ心ニ念セシム一ニ曰ク今日怒ル勿レ二ニ曰ク憂フル勿レ三ニ曰ク感謝セヨ四ニ曰ク業ヲ励メ五ニ曰ク人ニ親切ナレト是レ実ニ修養ノ一大訓ニシテ古聖賢ノ警戒スル者ト其ノ揆ヲ一ニセリ先生之ヲ以テ招福ノ秘法萬病ノ霊薬トナセハ其ノ本領ノ在ル所知ラルヘシ而カモ開導ノ道ニ至リテハ力メテ卑近ヲ旨トシ何等高遠ノ事ナク静坐合掌朝夕念誦ノ際ニ醇健ノ心ヲ養ヒ平正ノ行ニ復セシムルニ在リ是レ霊法ノ何人モ企及シ易キ所以ナリ輓近世運推移シ思想ノ変動寡カラス幸ニ此ノ霊法ヲ普及セシムルアラハ其ノ世道人心ニ裨補スル者鮮少ナラサルヘシ豈啻ニ沈痾痼疾ヲ療スル益ノミナランヤ先生ノ門ニ入ル者二千余人高弟ノ都下ニ居ル者ハ道場ニ会シテ遺業ヲ継キ地方ニ在ル者モ亦各其ノ法ヲ伝フ先生逝クト雖モ霊法ハ永ク世ニ宣播スヘシ嗚呼先生ノ中ニ得テ外ニ施ス者豈ニ偉且大ナラスヤ頃者門下ノ諸士相議シ石ヲ豊多摩郡西方寺ノ墓域ニ建テ其ノ功徳ヲ頌シ以テ不朽ヲ図ラントシ文ヲ予ニ属ス予深ク先生ノ偉蹟ニ服シ諸士カ師弟ノ誼ニ篤キヲ嘉ミシ敢テ辞セスシテ其ノ梗概ヲ叙シ後人ヲシテ観感瞻仰諠ル能ハサラシメンコトヲ庶幾フ

  昭和二年二月

            従三位勲三等文学博士    岡田 正之 撰

            海軍少将従四位動三等功四級 牛田従三郎 書

 

 

霊法肇祖臼井先生功徳之碑 現代語訳

 

修養と練磨の実質を積み重ねて、自らの内で体得したものがある場合を徳と言い、 教導と救済の方法を広めて、他で実際に施すことがある場合を功と言う。その功績が高く人徳の大きくて、始めて偉大な宗師であることができるのである。 昔から賢人や哲人、英才などで系統的学問を興したり宗派を創始した者は皆そうである。 臼井先生もまたそれらの人達と同様の者であろう。 先生は新たに宇宙の靈氣に基づいて心身を改善する方法を始めた。 周辺の人たちが伝え聞いて教えを乞う者、療法を願う者達が一斉に集まりだして、 大変に盛んな事であった。

 先生は通称を甕男、号を暁帆(ぎょうはん)と云い、岐阜県山県郡谷合村の出身で、千葉常胤(ちばつねたね)を祖先とする。 父の実名は胤氏(たねうじ)、通称を宇左衛門。母は河合氏より嫁ぐ。先生は慶応元年八月十五日に誕生した。 若い頃より苦労して勉学に励み、その実力は友人達を遥かに凌いだ。長じてからは欧米に渡航し中国に遊学した。しかし世に出ると志と違い、思い通りに運ばず、運悪く度々生活に困窮したが、 少しも恐れ怯まず、ますます鍛練に励んだ。

ある日、鞍馬山に登り食を断ち、苦修辛練すること二十一日。突然に一大靈氣を頭上に感じ、悟りが開けると共に靈氣療法を体得した。それからこれを自身で試し、家人にも確かめると即座に効果が現れた。 先生は、この力を家族とのみ独占するよりも、広く世の中の人に授けて共有する方が良いと想った。

 大正十一年四月、住居を東京青山原宿に移し学会を設立、 靈氣療法を公開伝授し治療を行った。遠近からやって来、受療を乞う者の履き物が戸外に溢れた。大正十二年九月、関東大震災が起り、傷病者が到る処で苦しみ呻いていた。 先生はこれを深く憂い、毎日市中を巡回治療、どれだけの人達を治療したかわからない程だった。この緊急事態に際し、先生の行った救済活動は概ね以上の通りであった。その後、道場が狭くなったので、大正十四年二月、市外の中野に占いによって住居を新築した。

 先生の評判は益々広まり、地方より招聘される事が多くなった。先生は、求めに応じ、呉に行き広島に向い佐賀に入り福山に至り、その旅先の宿で図らずも疾病を罹患し、ついには旅宿で逝去した。大正十五年三月九日である。享年六十二歳であった。

配偶者は鈴木氏から嫁ぎ、名前を貞子(ていこ)、一男一女を設けた。男の子を不二と云い、臼井家を継いだ。先生の為人ひととなりは温厚で慎み深く、外観を飾らない。体は大きくがっしりとし、いつもにこやかに微笑みを含んでいた。しかし事に当る時は意志堅固で、よく忍耐し、極めて用意周到であった。もとより非常に多才で、読書を好み、歴史や伝記、医書及び仏教やキリスト教の経典、心理学、神仙術、呪術、易学、人相学に至るまで熟知しないものが無かった。想うに先生の学芸・経歴は修養練磨の資料となり、修養練磨は靈氣療法創建の鍵となった事は実に明らかな事であった。

顧みると靈氣療法の主眼はただ単に疾病を治療するのみではなく、要は天賦の靈能に因って心を正しくし、身体を健やかにして、人生の幸福を享受する処に在る。故に他人に教えるには先ず明治天皇の遺訓を奉体し、朝夕五戒を唱えて心に念じさせるのである。五戒とは、一に「今日怒る勿なかれ」、二に「憂う勿れ」、三に「感謝せよ」、 四に「業を励め」、五に「人に親切なれ」である。これこそ大事な訓戒であり、古来の聖人・賢人による自らの戒めと同種のものである。先生は、これを以て『招福の秘法 萬病の靈薬』とされているのであるから、それだけの特性が備わっていることを知るべきである。しかも指導方法においては、努めて分り易さを旨とし、難解な事もなく、静坐合掌朝夕念誦(ねんじゅ)の際に純粋で健全な心を養い、日常の行いに還元させることが肝要である。これが靈氣療法が誰にとっても努力してその能力を持ちやすい理由である。

近年、世の中は激しく移ろい、人々の思想の変動も少なくない。幸いにも、この靈氣療法を普及出来るならば、世間の人々の道徳心の乱れを補う為の助けとなる者も少なくないだろう。決して長患いや持病を治療する利益だけではないだろう。

先生の門下に入った者は二千余人であった。その内の高弟で都下にいる者は道場に集って遺業を受け継き、地方にいる者もまたそれぞれに靈氣療法を普及した。 先生は逝去したが、靈氣療法は永く世に宣揚せんようすべきである。ああ、先生が自ら体得し、それを他者に施した事はなんと偉大な事であった事か。この度、門下諸氏が集まり相談した結果、 石碑を豊多摩郡西方寺(菩提寺)の墓域に建て、その功徳を讃え、末永く後世に伝える事となり、碑文を私に委ねる事となった。私は深く先生の偉大な功績に感服し、諸氏が師弟の縁を全うする篤あつい情を祝し、敢えて辞せずにその大略を記述し、後世の人がこの石碑を見て感嘆し、仰ぎ尊ぶ事を忘れる事の無いよう庶幾うものである。

 

昭和二年二月

            従三位勲三等文学博士    岡田 正之 撰

            海軍少将従四位動三等功四級 牛田従三郎 書

このブログを検索

ブログ アーカイブ

QooQ